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Spontaneousになることの試み|砂連尾理

“ものをみるには早すぎる”というセリフが本編の前半と後半にそれぞれ一度出てくるが、このセリフはこの劇全体を象徴するかのような言葉だ。それは劇が始まるや否や一気に加速し、観客である私たちを戸惑わせる。その冒頭を見てみよう。3人の俳優がゆっくりと登場し中央に横一列に並ぼうとする瞬間、ビル・ワイマンの「I want to get me a gun」が唐突に流れ始め、真ん中にいる俳優が“タヒチ?”と言うところからこの舞台はスタートする。横一列に並んだ俳優はそれぞれポーズを決め、舞台に向かって左に位置する俳優は腰から上半身を左側に傾け、真ん中の俳優と右端の俳優は上体を反らしているが、視線はそれぞれ微妙にずれていて、左端の俳優は前方を眼差し、真ん中の俳優は前方斜め上を見ているの対して、右端の俳優の視線はほぼ真上を見上げている。それぞれ3人の俳優の身体の位相のズレを提示しながらも、そのドライブ感をあっさり置きさるかのように真ん中と右端の俳優は前方に移動したかと思うと、二人は電車の中での会話へと移行する。その間、僅か30秒、そして、音楽も(あっさりと)フェードアウトしていく。冒頭の変化はそこで終わらず、電車での会話も50秒ほどしたら場は一気にマンションの台所へとワープし、そこで冒頭発せられたタヒチの地域の説明やその名前のつく大玉の黒皮スイカ、また画家のポール・ゴーギャンが描いた「タヒチの女」など、タヒチにまつわる話を展開しながらも、その話の2分半後には場がスーパーに移り、それから1分半ほどすると今度は京都の天の橋立へと場を移動させる。冒頭から約5分少々の間に空間はボート、電車、マンションの台所、スーパー、そして天の橋立と五ヶ所もの場所をスピード感を持って展開していく。これは前作の『伸り反り』の冒頭が5分ほど続くことや、前々作の『洋間たち』に至っては冒頭から22分ほどが同じ場所でのシーンが続くことを思うと、その展開のスピードは格段に早い。


もちろん、このテンポを継続したまま劇は進行するわけではない。その速度は時に(例えば、22分過ぎ~24分過ぎまでのエスカレーターシーン)減速したりもするが、全体を通して50分のこの劇で、そのシーン数は35~6ヶ所にも及ぶ。平均すると1シーン1分半ほどの計算になるほどシーンの展開は早い。しかもその移行は一つ一つが区切れ、リニアに次のシーンへと移行するのとは異なる。冒頭のシーンの移り変わりをもう少し詳しく見てみよう。その前にこの劇の登場人物について触れておきたい。出演する俳優は4人だが、その4人は特定のある人物を演じ続ける訳ではない。それは脚本を読んで分かったのだが、それぞれの登場人物は【四人組1~4】とだけ記されていて、1、2が男性で、3、4が女性だ。
さて、冒頭のボートシーンだが、このシーンが30秒後に二人の俳優(四人組1・加賀田玲、四人組3・小川真由子、以降番号で表記)が移動することは前述したが、左端のもう一人(四人組2・星和也)はボートシーンのポーズのまま(上半身が左側に傾いたまま)止まっている。つまり開始から30秒後に空間は二つに割れ、一つは電車の時間が流れ、もう一つの空間はボートの時間のまま止まっている。続く電車からスーパーへの移行は電車の揺れから身体が左に傾きその揺れが収まって身体の傾きが戻ると同時に(2はここで退場)空間はマンションの台所へと移り、3は購入品を冷蔵庫に詰め、1はスイカを切ろうとする。途中、その作業を交代するのだが、そこにこの劇のもう一人の登場人物(四人組4・新家奈帆)が下手から入ってきて1の隣で片膝をついて詰め作業の手伝いを行う動作を始める。この時、舞台中央から下手側がスーパーでの詰め作業、そして上手側が台所のそれぞれの時間が並行して流れている(いや、もしかすると3も既にスーパー店員に変身しているのかもしれないが)。そして、4と3が会話を始めて15秒ほどすると、3のスイカを切ろうとしていた身振りがいつの間にかスーパーの詰め作業に加わり、場が1~4~3の流れ作業を行う、スーパーへと移動していることが分かる。


その流れ作業が30秒もしない内に1がスーパーでの業務指示をしながら舞台から捌けていく。3と4の詰め作業の身振りはその後も反復、それから40秒ほどしたら再び1が(恐らく)前のシーンとは異なる人物に変わって上手奥から登場し、場が突然、天の橋立のシーンへと変わる。また、そのシーンから程なくして4が突如、上手奥に移動して手招きをするかのような動きを始める。この動きが何なのかはその時点ではよく分からない。これはその後、約50秒後に場全体がリフト乗り場に移行するのだが、4が移動したその時点では舞台の主なシーンとして展開しているのは天の橋立で、4だけが一人そのシーンから抜け出し、次のリフト乗り場のシーンへと空間を先取りするような動きが始まる。このように、この劇はシーンの始まりと終わりがただ連なるような展開をするだけでなく、場の突然の侵入と時間(未来、過去)の割り込みが起きるのだ。そして劇が進行すると共に、更に複数の場と時間が交錯し始め劇の時空間が多層的に広がっていく。それは例えば、3と4がエスカレーターでの会話のシーン後、24分35秒頃から4人の俳優全員が舞台下手手前で集まり車に乗車、駐車場に停車するというシーンがあるのだが、車が駐車場に停車すると同時に、車中であるにも関わらず4は車中とは思えない動きを始める。それは、その後に展開するボート乗り場(或いはリフト乗り場)での事務作業を先取りるかのような動きなのだ。また、車が駐車場停車後、25秒ほどしたら1は車を出て下手奥に移動して観客に背を向けながらある家での点検作業の身振りを始めるなど、さらに時空間は複雑に入り混じってくる。その変化は登場人物の関係性も同様で、冒頭のボートに乗っている1、3と次のシーンに移行した電車で語り合っている1、3は同一人物なのか、またその関係性は継続されたものなのかは定かでない。このように『群の群れ』は場所だけでなく時間も今と未来、そして過去を行ったり戻ったりしながら、時空の変化、関係性の変容を四方八方に拡散させ、知覚しやすい定点を決して定めず、すべてを流動的にしながら観客である私たちを揺さぶってくる。

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さて、そのような時空、関係性の流動性を展開をしているこの劇の俳優の身体はどうなっているのだろう?それは基本的にはこれまでの三枚組絵の作品にも見られる特徴を踏襲していて、今回も全体を通して俳優の演技のトーンは静かでゆっくりだ。但し、その演技は静止して演じられることは稀で、常にある身振り(スイカを切ろうとする手の動作や、リフトに乗っていることを示す踵を上げては下ろす足の動作など)を静かに反復したり、また静止していたとしても身体を歪めたり、奇妙な姿勢でポーズしたりなどしながら、その身体の内側は高速に振動しているように見え、静と動、またミニマムな動きの中に歪みが混在している身振りが基調だ。そして、それは発話も同様で、それぞれの発話はゆったりだが会話調というよりは、時に書き言葉のような棒読み(特に3の発話)が混じったりなど、会話としての調和を欠いた、ズレや不協和音を含んだ発話になっている。更に、それらの身体が配置される構図も演技や発話同様、これまでの三枚組絵の空間構成を踏襲している。それは客席に対して真っ直ぐ正対している姿をベースにしながら舞台を一枚の絵として捉えやすい構図になるよう配置されている。そして、それも単に平面的な構図に収まることなく、時に石庭だったり、或いは夜空の星座を想起されるような立体性を伴い、身体と余白から様々なイメージを喚起させている。このように三枚組絵の演技、構図から見えてくることは、一見すると相反する要素の組み合わせ、その共存から生じる緊張感が独特の空間を生み出していると言える。
 

ここで、三枚組絵の演出スタイルについても見ておきたい。今回の作品を現場ではどのように作り上げていったのかを作・演出の我妻直弥に聞いたところ、ムーブメント・ディレクションの石田花奈との作業は基本的に別日の作業を行うことが多かったようだ。我妻はそんな演出スタイルを採用した理由として、どちらかが主導し一つの色に染めることのないようしたかったのだと言う。そんな三枚組絵の演出スタイルはまるで将棋やチェスを差し合うかのように、相手の出方を見ては、自分の手を打っていく、そんな日々変化する形で作業で進められたのかもしれない。また、俳優たちも二人の演出に対してどのように演技を選択するのかの裁量は与えられていたようで、我妻曰く、俳優それぞれは演出の意図を理解しながらも、自らの判断で演技を選択し自由に演じていたそうだ。そんな自律しあう関係、それはまるでジョン・ケージとマース・カニングハムのチャンスオペレーションのような関係が可能になるのは、もちろんそれぞれの信頼関係があるからこそだが、今回の舞台では(それは今までもそうだったのかしれないが)、その日その日に発生する偶然性、そこで発生する新たなリズムが渦巻く舞台でもあったのかもしれない。


さて、今回の『群の群れ』で起こっていた構造、運動を整理してみると、様々な相反する要素の共存と反発、そこに偶然性が幾重にも折り重なっていることが見えてくる。その要素を改めて確認してみよう。劇そのもののシーンの早さに対しての身体の遅さ、そして、その身体の内と外に発生する静と動に、その流れから起こってくるミニマムな動きと歪み、また話し言葉と書き言葉、調和と不協和音、そして平面と立体。そして、それらの要素は、常に一定ではなく、俳優たちの偶然性による意図せぬエネルギーによって坩堝のようにかき混ぜられ、それが劇の進行とともに群れをなして静かに氾濫しながら劇を更新していく。こうやって見ていくと、『群の群れ』は無意味と有意味が混在する宇宙そのもの、また世界の在り方を現象として立ち現れさせることを試みた舞台だったのではないだろうか?なるほど、そう考えると当日のパンフレットに記されたメンバーによるテキストの題名が劇場であるSCOOLの住所、“三鷹市下連雀3-33-6、三京ユニオン5F”であったことも頷ける。劇場の空間、場所そのものが自律性を持った宇宙であり、自発的(spontaneous)な存在そのものなのだ。そこでは時間も空間も我々が認識する意味や意図を超え、常に変化し続けながら淡々と流れていく――そう、この劇の展開の早さそのままに。もちろん、『群の群れ』が宇宙や世界の有様を単に示すことだけに留まるものでないことは言うまでもない。『群の群れ』というフィクションに内包されている、構造と運動の二重性、そして、“三鷹市下連雀3-33-6、三京ユニオン5F”というリアルな場が持つ二重性――そこにはフィクションが上演される意味的な場所としての劇場があり、私たちはついそこにばかり目を向けてしまうが、その傍らには、人間の意味など知らぬまま、常に変わらず存在し続けてきたカオスな時間・空間としての場所もある――それらが混ぜこぜとなり氾濫する場に身を置きながら、そのいずれの意味のとも異なるspontaneousな身振り、それは正に今の混沌とする世界の現状の在り方に対する密やかな抵抗、いや最早、抵抗という意図さえも捨て去った先にある現象そのものに“なる”ことを『群の群れ』は試みていたのではないだろうか。もはやどこに定点があるかもわからないこの世界の現状に、慌てず、ただ在り続けること、生き続けることのために。だからタヒチに関して何ら解決せずとも、ラストシーンまで一切登場していなかったバッタが飛んでこようとも、そして “ものをみるには早すぎる”展開が様々な場所で何度起ころうとも、彼らは“へんにあらがわず”淡々と踊り続けているのだ。
 

砂連尾理(じゃれお・おさむ)

振付家・ダンサー。91年、寺田みさことダンスユニットを結成。02年、「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2002」にて、「次代を担う振付家賞」(グランプリ)、「オーディエンス賞」をW受賞。近年はソロ活動を中心に、ドイツの障がい者劇団ティクバとの「Thikwa+Junkan Project」 (ドラマトゥルク・中島奈那子)、国内外の高齢者との「とつとつダンス」などがある。また、濱口竜介、山城知佳子の映像作品に振付・出演や劇中ワークショップ・演技指導で参加。
著書に「老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉―ダンスのような、介護のような―」(晶文社)。立教大学 現代心理学部・映像身体学科 教授

​三枚組絵シリーズ「群の群れ」劇評

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​©三枚組絵シリーズ

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