『群の群れ』に寄せて|中本憲利
三枚組絵シリーズの新作『群の群れ』は、上演時間五〇分に満たない小ぶりな舞台だが、総じて丁寧に造作された、まさしく佳品と称すべき上演だった。はじめに、読者の便宜のためにも確認しておくと、本作に描き込まれているのは次のような物語である。
──三年ばかり誰も住まないでいた実家に大量の蜂が棲みついたため、遠方で暮らす男は巣の駆除に立ち会わねばならなくなる。彼は、連れ合いを伴い、現地では甥に車を出してもらって義務的な帰省をこなす。道中、一行は近くの名勝地に寄り道し、リフトやモーターボートに乗って漫然と物見をする。ややあって用事は済み、甥を介してその母親(男の姉)から贈られた大玉の黒皮スイカが、二人で住むマンションの一室に持ち帰られる。スイカの果肉に包丁の刃を入れようとした連れ合いは、手を滑らせて自分の肉を切りつけてしまう。左手についた傷はしばし放っておかれて、ずいぶん後に縫合されるまでは血が流れるままになる。やがて相当の歳月が過ぎると、かつての空き家は新しい住人やひとときの滞在者が行き交う生活空間に姿を変えている。
このあらすじは多少とも省略を含みつつ『群の群れ』の物語内容を概観しえているだろう。しかしながら、劇そのものの実際のなりゆき、すなわち物語られかたの如何は、舞台が終結したあとでのみ遡及的に見いだされうるお話とはさしあたり別の事柄である。というのも、本作は二〇前後のシーンが物語内の時間推移にかかわらず連鎖してゆくことを構成上の第一の特質とするからだ。言い換えれば、上演は、異なる日時と場所において別々の登場人物たちのあいだで生じる諸場面をめまぐるしく往き来しながら進行する。つまるところ『群の群れ』は、上演の実態に即していえば、ある総体として事後的に立ち上がる物語とは別の何ものかによって組織されていた。そして思うに、クロノロジーを放棄したドラマを何よりも駆動し、統御していたのは、随所にちりばめられた〈所有〉のモチーフであった。
本作において、〈所有〉の主題はさまざまな相貌──排他的な権利の保有、意図せざる占拠、他者との共有、誰のものでもない/誰のものでもありうるものの貸借、純然たる贈与など──を伴って現れる。少しばかり列挙してみよう。そもそも、没交渉な二人の縁者(男と甥)をつかのま結びつけるのは、かつての住まいが人ならざるものに棲みつかれてしまったという占拠の事態であり、遠くに住む男が蜂の巣の駆除のためわざわざ行政に呼び出されるのは、近場の姉ではなく彼こそが当の物件の所有者だからにほかならない。男とその連れ合いのために移動手段を提供する甥は、自分のことを「外孫」と呼んで姓の保持/喪失(変更)を線引きする家族制度に目配せするうえ、ふだんは観光名所で物見客あいての自転車の貸し出しに関わる仕事をしていると告げる。また、男に姉が、甥に職場の上司がそれぞれスイカと日向夏とを与えるのは、一見よく似た贈与の行いだが、二種の果実の含蓄は微妙に異なる(前者は間遠な弟と顔を合わせる代わりに差し出されるもの、後者は大量に生ってしまっておそらく誰彼かまわず配っても差し支えのないもの)。件のスイカがいささか問題含みな連想にちなんで「タヒチ」と名づけられた品種であることを手元の端末で調べあげた連れ合いは、その名をもつ島がかつてフランスの植民地だった歴史的事実をも想起しつつ、絵画《タヒチの女》のキャプションを所蔵先も含めて読み上げる──そして、スイカを切ろうとして男から包丁を受け取るものの誤って自らの手を傷つけ、自分の時間を賃金に換える労働のさなか、滲み出した血の付着した商品を買い取るはめになる。結末ではかなりの年月が経過したと思しい状況が出現し、とうに蜂のいなくなった家は、売られたか貸し出されたか、見知らぬ人々によって住まわれている……。
ピースの多くを欠いたパズルのごとくシーンを再配置してゆく上演は、物語の全容をたやすく開示しはしない。また、俳優たちの身振りは単純な反復動作に切り詰められているので、それらが何を表しているのか判然としないこともしばしばである。それでもなお観客の注意がかろうじて繋ぎ止められるのは、上に示したように〈所有〉のモチーフが全篇にわたって間断なく繰り出されるからだろう。もちろん、数々の挿話はとりとめなく並べ置かれているわけではない。「タヒチ」に刻まれるはずだった切れ込みが左手についてしまうという初発の錯誤が、あるとき受傷すべき身体が取り違えられたのではないかとの疑い──「この切り傷は本当は、そっちにつくはずだったのかも」「本当は?」「それが間違って、こっちの左手についた」──に転じることで俄かに群れのかたちをなし、やがて切り傷が縫われることで自分と自分でないものとの分節化がやや強引に回復する──「この関節はあなたではない。〔…〕あれはわたしの左手でない」──という、固有身体をめぐる密やかなサスペンスが〈所有〉の主題を裏打ちしているのだ。
かてて加えて、『群の群れ』にことのほか快い緊密さの印象を与えているものとしては、ここまで述べてきた主題上の一貫性だけではなく、より具体的なドラマトゥルギーの次元における繋ぎかたの機微をも挙げねばならない。時間的空間的に離れた二つの状況がシーンとして連接されるとき、その切り替わりの前後で役を担う俳優の組み合わせやかれらの身体動作はあたりまえに全然別のものとなる(「繋ぎかた」とは、そうしたずれをいかに処理するかというごく素朴な問題を指して言ってみたものだ)。本作はそこで、忙しない出ハケや暗転といった即物的な手段に訴えるのを慎み、舞台の上に場違いな人物が場違いな身振りのまま留まってしまうのを許容する。ある場面が新しく始まっているにもかかわらず、すでに演じられ終わった場面に属する俳優が最後のマイムのまま、あるいは動きを止めて、相変わらず舞台の上にいる。かと思えば、数テンポ置いてふと我に返るように役を解き、すたすたとアクティングエリアを離れては上手奥の扉からベランダへと退き、次の出番まで身を隠す。逆に、二つのシーンにまたがり、出ずっぱりで同じ役を演じる俳優は、離れた場面に身を置きなおしつつ、ぬるりと別のマイムに移行する。上演が経過するにつれて繋ぎかたはいよいよ大胆になり、あるシーンが別のシーンをほとんどこじ開けるような仕方でせり出してもくる。いずれにせよ、繋がるはずのない時空が繋ぎ合わされることで、演技態の遺留と錯綜、それから不意の一致が生じ、俳優が役柄を得たり失ったりする瞬間がありありと露呈する。肝心なのは、場面場面を繋ぎ合わせるやり方はそれじたい種々雑多であり、これといった概括のしようがないという点である。群れをなす諸々のシーンが互いに相接する、そのような契機における取り計らいの多様さこそ本作の感興の大きな割合を占めるものだ。
約めて言えば、『群の群れ』は、〈所有〉の主題を作中すみずみまで行き渡らせることで物語とは別の意味連関を編成しつつ、ばらばらなシーンを継起させるにあたって繋ぎの論理を複数化することで劇の進行に相応の起伏を持たせることに成功していた。小品ながら当「シリーズ」における制作術の洗練を証する一作である。
中本憲利(なかもと・けんと)
インディペンデントキュレーター、批評家。1999年生まれ。出来事や生を記述するさまざまな様式に関心を寄せながら、企画や評論に取り組んでいる。2026年の主な仕事に、展覧会「誌面開放」(表裏 by FINCH ARTS、京都)やギャラリートーク「大岩雄典・レ🐳トロスペクティブ」(YAU CENTER ぜにがめ、東京)のキュレーション、『美術手帖』2026年7月号特集「21世紀の現代アート事典」の項目執筆など。