借り物の身体で生きる|草野なつか
リズムは身体をつくりかえ、生活にかかる無数のリズムが、私の身体を、私らしい身体たらしめる。しかしそれが共同体に置かれると、他者や規範によって、ときどきは打ち消され、歪み始めてしまう。
それでもなお、私のリズムが持続したまま、他者のリズムとかち合える空間、いくつもの「私」たちのリズムが、かち合いながら混交する「らしい身体」の共同とその上演は実現しうるだろうか。
(『伸り反り』ステートメントより)
物心がついた頃には既に運動神経が悪かった。お試しで幼児体操教室にいった時どうしてもスキップが出来なかったことは人生において初めての「みんなと同じことができず恥ずかしい思いをする」体験だった。以来、自分の身体を遣った何かを人前で発表することに対する苦手意識が拭えない。
自分の身体が自分のものではないという感覚に気が付いたのは小学生の頃だった。私は、借り物の身体で生きている。それは今もずっとそう。けれども、わたしの身体がわたしのものである必要性は、一体どこにあるのだろう。
『伸り反り』には舞台装置はほとんどない。真ん中に太く大きな柱がある劇場<BUoY>の空の舞台に、まるで「人生ゲーム」の車に刺す棒人形のような、演者たちの即物的な身体があり、動作は大体マイムで賄われる。そしてそのマイムは不完全なものであるため、戯曲を読んでいない限り何が行われているのかわからないことが殆どだ。「わからないこと」はたびたび「意味を持たないもの」に変貌する。
そもそも、この団体名にある「三枚組絵」という言葉は「画家フランシス・ベーコンによる三枚組絵の作品群から引用したものである」らしい。
それらの作品は三枚のパネルそれぞれに人物の図像を描いたものだが、(中略)彼が批判するのは、絵画が物語に覆われてしまうことである。だから彼は三枚組絵という形式によって、人物たちを隔てているのだ。しかし、この三枚のパネルの関係性が物語によるものでないならば、それはなんなのだろうか。そこには、どのような秩序が働いているのだろうか。
(「三枚組絵シリーズ」ウェブサイトより)
戯曲上では向かい合っているふたりであってもこの上演では、決して向き合うことはない。横並びの位置関係のふたりは、私たち観客側に身体を向け言葉を発する。しかし彼らが私たちに向け話しかけているようにも思えない。彼らは虚空に向かって言葉を発し、戯曲に書かれているセリフ=言葉の「それ以上の意味」は私たち観客の座っている場所まで届くことはない。人と人は、向き合って会話をするとそれだけで物語が生まれるし、その物語は、様子を見ている第三者(演劇においては観客という存在)の記憶にも触れる。記憶はやがて、その当人のなかのどこかの引き出しにあった物語をさらに想起させ、物語は人々の拠り所となる。拠り所が出来ると見ていないものを見たような錯覚に囚われるし、極個人的な解釈が生じる。『伸り反り』はそういった過程を全て拒否しているように見えて、その点に私はいたく好感を持った。私たちが拠り所にするものは何もない。目の前にはただ空間と演者の身体があり、その身体と同等の存在感で大きな太い柱がある。その居心地の悪さと現実感のなさが、私に夢遊病を追体験させる。
幼い頃、夢遊病の時期があった。脳は眠っているはずなのに家の中を歩き回り親に心配された。今もその傾向は完全には無くなっていない。最近はよく幽体離脱のような夢を見る。リビングのテーブルで作業をしよう、あ、でもまずは麦茶を飲みたいなあ、と考えているが、実際の私は寝ている。私の家は寝室からリビングが見渡せる。寝ている実際の私が、リビングを歩き冷蔵庫に向かっている私の背中を見ている。私はコップに麦茶を注ぎ、こちら=寝ている実際の私に近い方にあるテーブルの方へ戻ってこようとする。私と目が合いそうになる。その瞬間目が覚める。
私は夢をみることがとても好きだ。できればずっと眠っていたい。みる夢の一つ一つには深い意味なんてないしそんなものは考える必要もない。そして、現実に生きるわたしよりも夢の中のわたしの方が「らしい身体」を持てているような感覚がある。夢の中のわたしの方がわたしを生きることが出来ている、そんな気がする。
『伸り反り』は戯曲がとても面白い。読み物としても充分面白く、こんなに面白い戯曲ってそうそうないんじゃないかしら、と思うくらいに。別の空間でそれぞれ行われていたり別の時間軸にあったはずの動作や会話が、普通の顔で並列して書かれている。そこに奇を衒っているような印象もない。しかしよくよく考えてみると、わたしが今こうしてパソコンを打っている間にも別の離れた空間で、私と一瞬でも関係があった人が他のことをしているし、その「他のこと」は後々私の人生になにか影響を与える物事かもしれない。また、私はこうしてパソコンを打ちながらも、頭のなかの別の場所ではこのあと誕生日のお祝いで食べにいく焼き肉のことを考えている。それぞれの大きさや深刻さ、優先順位は異なるものの、物事はその場所に同等に存在している。この戯曲にはそういった描写が頻繁に出てくるし、実際の上演でも、だだっ広いフラットな舞台上のなか様々な場所で様々な事柄が同時多発的に起き、独立したフィクションの空間がそれぞれ存在している。全ては点として「ただそこに」あって、結びつきや同時に存在している意味などは、考える必要がないように思う。
観劇した日はとても気温が高かった。会場を出て駅まで歩くそう短くない時間、拭っても拭っても汗は吹き出し、服は肌に張り付いた。唐突に、この不快さこそがわたしの身体がわたしのものである必要性なのかもしれないと、そんな考えが頭に浮かんだ。借り物の身体で現実を生きることも、それなりに悪いことではないのかもしれない。
草野なつか(くさの・なつか)
1985年生まれ、神奈川県出身。東海大学文学部文芸創作学科卒業後、映画美学校12期フィクションコースに入学。2014年『螺旋銀河』で長編映画初監督。長編2作目『王国(あるいはその家について)』はロッテルダム国際映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭などで上映される。いずれの作品も演者と役柄のあわい、役柄を「獲得」したときの声の変化に着目した作品であり、あくまで劇映画にこだわりながらの制作を続けている。